2016年09月24日

朝子おばあの話:愛の人

出会いはグアバの香り

石垣島でグアバジュースを
手作りする家庭は珍しくない
朝子おばあは
お手製のグアバジュースの入ったペットボトルを開けた
私が借りていた
お隣さんが何のTVを見ているか分かるくらいに
壁の薄い部屋で


途端にジュースが爆発

朝子おばあもびしょぬれ
床もびしゃびしゃ

目が点になるとはこのこと

途端に濡れた本人が大爆笑

3軒先にまで届きそうな豪快な笑い声

その後も会話中に思いだしては大爆笑
誰がっておばあがよ

今も鮮明に思い出せる大きな笑い声

(※グアバジュースは普通は爆発しません。
陽に当たって発酵しちゃったみたい)

***

ベルセウス流星群を見に行った夏の夜中
あいにく 満天の星が 雲に隠れていた

朝子おばあは言った

「ちょっと あの雲どけてもらえんかね」

「・・・? だ、誰に?」

「決まってるさ、宇宙よ!」


どんな顔して言うかって
そりゃもう大真面目

こんな調子で一番元気
宇宙も動くのではないかと思わせる何かがある人

帰路は一人爆睡


そんな朝子おばあの話

朝子おばあの話:愛の人



***

朝子おばあの話:愛の人

石垣島北部 マーペーと呼ばれる山の麓にある
小さな集落・野底
(写真右側の突起のある山がマーペー)

朝子おばあこと
上地朝子(うえち あさこ)さんが暮らす
昭和24年4月1日生まれの67歳


美肌と健康の秘訣・
島らっきょうと島にんにくを食べて
畑に行くのが毎朝のパターン


作っているのは
パイン、コーヒー豆、島らっきょうにハーブ
全て無農薬で育てている


朝子さんの庭一面に植えられているハーブは
健康を支えてくれている

朝子おばあの話:愛の人
朝子おばあの話:愛の人



ここは石垣島に2つあるコーヒー農園のうちの一つ。
ハワイとの縁で栽培が始まった

無農薬栽培のため 特に収穫は天候に左右される
ヤシを防風林として植えて台風に備えている
これでも完璧には風を防げないが
被害は格段に少なくできる

朝子おばあの話:愛の人

朝子おばあの話:愛の人
背の高い木々が防風林



朝子おばあの話:愛の人

朝子おばあの話:愛の人

独特の赤土で作られるパイン
またこれが甘くて美味しい!!!
来年の分のパインを植える準備をしている

石垣島で教わった、
戦争に勝ったことを表すピースではなくアイラブユーのポーズ


朝子おばあの話:愛の人

朝子おばあの話:愛の人
この2枚の写真は朝子さんからいただいた
パイン収穫時のもの



山の麓で海を眺めながらの農作業
朝子おばあの話:愛の人




お父さんは野底の開墾の団長として
宮古島からこの地に渡ってきた
生活の目途が少したってから家族を呼び寄せた 
朝子さん当時5歳

団長だったお父さん とても厳格な方だった

子どもも生活の担い手だったため
5歳の朝子さんにも仕事があった
マーペーの麓から薪を集めてくること、
天秤棒で湧き水から汲んだ水を運ぶことがそれだった

それができないとこっぴどく叱られた
父は怖い存在だった

お母さんは石垣島に渡ってすぐから病を患い
奥の暗い部屋で寝たきりだった
先が長くないと分かっていたためか
お母さんは情がうつらないようにと
亡くなるまで 朝子さんを近づけることはなかった
亡くなったのは小学校1,2年生の頃だった

上に年の離れた6名の姉兄がいたが
年が離れすぎて一緒に何かをしたという記憶はない


だからずっと寂しさがあり
家族の温もりを知らずに育った
と朝子さんは振り返る

誰にもその寂しさを吐き出せずにいた
薪を焚いているときにだけ
煙に任せて思い切り泣いた



開墾といっても大型機械があるわけではなく
クワ、カマ、ノコギリで森を開く

電気はない
水道もない
家は移民皆で協力し合って建てたもので
もちろん頑丈とは言い難い

一緒にこの地に来た開拓団の男たちは血気盛んで
昼は皆で仕事をし 夜はまた皆で酒を呑む
そのうち喧嘩が始まるのは珍しいことではなかったが
それは家々を壊す程で
幼い時分の朝子さんはそれが恐ろしくて
隠れて軒下や馬小屋で一人寝ることもあった

中学校を卒業したのは昭和39年
同時に浜松市の機織り工場に就職した

食べ物はあったが現金はない暮らし
パスポートを持って
着の身着のまま船で本土へ渡った

初任給7000円の時代だ
服を買う余裕はなく
1年間は中学校のセーラー服で過ごした

南国でギラギラのてぃだに照らされて育った身体は
本土の人と比べると黒い
冬の寒さにも慣れておらず
手が霜焼けで赤くパンパンに腫れていた
そして中卒という学歴―

同僚に後ろ指を指され馬鹿にされた
悔しかった
だけど生きるのに必死だった
そんな嫌がらせには目もくれなかった
しだいにそれはなくなっていった


ところが就職して10ヶ月で会社は倒産
社内預金(財形)を 取り戻すため
組合で1ヶ月デモをした
朝子さんにとっては一から貯めた資産だ
お金の大切さは身を持って知っていた


次は織物の会社に再就職した
15歳から21歳までをそこで過ごす

社会活動をしていたため
プライベートも毎日充実していた
そんな時 お兄さんの友人である勝久さんと出逢う


「そりゃもう、猛アタックよ」

八重山のイントネーションで
何食わぬ顔でいきなりぶっこんできた朝子さん


「まだ結婚したくない!今が楽しい!」
と断り続けていたが
「あなたと一緒になれないなら生きていたくない」
と猛アタックに押され昭和45年に結婚した
子ども3人、孫8人に恵まれた


猛アタックしてきた旦那さんとは今でも仲良し
言葉少なだけど今も昔も変わらない愛で
天真爛漫な朝子さんを包む

そんな旦那さんは昭和20年の夏に生まれた
戦況が激しい時 防空壕で誕生した
当時はそんな子どもは少なくなかったが
生き抜いた子どもは少なかった


旦那さんのお父さんは
開拓民の会計係として野底にやってきた
朝子さんのお父さんと同僚ということになる

朝子さんの家からすぐ近くに建てられている
入植の碑にお二人の名前が刻まれている

朝子おばあの話:愛の人

朝子おばあの話:愛の人


朝子さんの家は
いつでも人を迎え入れる準備がしてある

と言ってもそれは目に見えるものではなくて心の方だ
朝子さんの家が心のオアシスになるように、と。

朝子さんにとっては 自分の子どもや孫と
他人の境がない

「心こそ大切なり」
という信念のもと出逢いを大切に
そして一人一人を大切に思って接している

良いものは良いと言い 悪いものは悪いと言う

どんなに偉い人でも有名な人でも関係なく誰でも平等

「チヤホヤされたい人はウチには来ないさ、
つまらないからね」


人を見る目は養われている

それは寂しさを知っているから
苦労をしてきたから
人の痛みが分かるから



「自分の生き様がドラマになる」

そう言える程の苦労を乗り越えてきた

寂しかったけど 大変な思いをしてきたけど
この歴史で良かったのだ

苦労は財産だった

そう考えると何も悪いことはない

それを伝えるために
間口はいつでも広げている



≪グアバを採る朝子さん≫
朝子おばあの話:愛の人

車でパイン畑に向かう途中グアバの樹を見つける
「実がなってる!!!」
と大興奮で傾斜が60度はありそうな急斜面を
実を採りながら降りる。
「おばあが採るから待ってなさい!」
と言われたけれど1人に任せてはいられない。
私はカメラ抱えて降りられそうになかったので
ぐるっと回って朝子さんのもとへ。

「幼いころ男の子も女の子も関係なく、
みんなで競って採ったさ。
だから今でも血が騒ぐわけよ!」

そう言って袋いくつぶん採っただろうか
その場でかじったグアバの味が忘れられない

採る
朝子おばあの話:愛の人

採る
朝子おばあの話:愛の人

容赦なく採る
朝子おばあの話:愛の人

採ったグアバを食べながら待つ子どもたち
朝子おばあの話:愛の人



朝子おばあの憩いの場所は
マーペーの山頂からすぐ下にある

ここに本と飲み物を持ってきて過ごす

朝子おばあの話:愛の人

「こんなに素晴らしい景色に囲まれて
もう何もいらない。
野底が大好きさ」


土地への愛と人への愛
それを表現して生きる人



孫のゆうみちゃんと一緒に
朝子おばあの話:愛の人


同じカテゴリー(life)の記事画像
美学の中で生きる 〜熊本地震から2年〜
希望
熊本を照らすあかり
米盛のおじぃの話
夜の世界
島のうたとビール
同じカテゴリー(life)の記事
 美学の中で生きる 〜熊本地震から2年〜 (2018-04-14 00:19)
 希望 (2016-12-31 01:56)
 熊本を照らすあかり (2016-10-19 00:38)
 米盛のおじぃの話 (2016-08-24 00:46)
 夜の世界 (2016-07-25 23:48)
 島のうたとビール (2016-07-19 00:38)

Posted by hachidori.photo at 14:45│Comments(0)lifeつれづれphoto
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。